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のんしゃらん抄

しがない日々なんで、毎日とはいえず、その週の小さな出来事を書きます。心に思うことを、見るもの聞くものにつけて、言い出します。

お知らせもします。週一更新を心がけます。

​親父からの連絡もここで。

  • 執筆者の写真さとし

6月2日、田植えの日

【告知】

田植え体験をしますよ


 日にち:6月2日(日)

 時間:9時から昼ころまで

 場所:神子田(さいたま市桜区塚本、荒川堤外たんぼ)

 持ち物:水筒、弁当(昼その場で食べる方)、着替え、タオルなどなど

 費用:無料

 ※当日、春の野菜(じゃがいも、玉ねぎなど)の収穫体験もできます。こちらは有料です。

 連絡先:高野博明 

 電話:090−3472−9700


どなたでもお気軽に連絡ください。質問など気になることがあれば直接父に電話してください。最近スマホデビューしたので、おめでとうもわすれずによろしくおねがいします。



・ここから関係ない話・

 ところで芭蕉っていいもんですね。べうべうと尻をならぶる田植かな、ですって。と言ってこれは芭蕉のものでなく、芭蕉作と誤伝された他人のものだそうですが、俳句ってなこんなもんかというきもちになれます。田一枚植えて立ち去る柳かな、なんてもう、なんていうかヴァルザーの気風があるようにおもいます。

 おそろしく繊細な小散文を書いたヴァルザーはわざわざこう書き出します、「さわやかな朝、僕は都市、大きな、名の知られた湖をあとに、小さな、ほとんど名の知られていない湖へ向かって歩き始める。途上、僕を迎えてくれるのは、ありきたりの道でありきたりな人間を迎えてくれるものばかりだ。」すべて新奇なもの、特別なものばかりが記され、撮られ、記録される世にあって、ただ見捨てられるだけの、とるにたらないありきたりなものたちを、こんなにも愛することができるヴァルザーの目を、ぼくは、芭蕉もまたもっていたようにおもいます。「わたしが目にしたものは、小さく貧しくもあれば、偉大で意味深くもありました、つつましくもあれば魅力的でもありました。卑近でもあれば貴重でもありました、愛らしくもあれば熱っぽくもありました。」茶人がそまつな茶碗に至上の美を見出したよりどころとなる思想ではなく、これは、ヴァルザーの「散歩」というあいらしい散文のなかのものです。

 いまでは、芭蕉がそのありきたりさをめでた手植えの風景は、すっかり珍しいものになってしまいました。幸か不幸か、いまでは田植え体験はものめずらしい立派なレクリエーションと化してしまいました。

 しかし残念ながらぼくらの田植え体験は、ぼくらは都人むけの洗練されたおもてなし精神など皆目もちあわせていませんから、ただむごい日差しのもと、目をほそめながら、じりしりしたたる汗さえ泥だらけの手では拭えぬままにして、そして、みなでべうべうと尻をならべて田植えをするだけです。だから、珍しいレクリエーションというよりかは、むしろありきたりな、というよりも、かつてありきたりだったのら仕事でしかないようにおもいます。

 それで、ありがたいことに、かえってヴァルザーの好むとるにたらないものかもしれません。それだからこそ、来てほしいものですねえ。

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